ギャラはしゃぶしゃぶ


友人の店が閉店記念に冊子を作ることになり、その冊子の撮影をした。
shopが制作する冊子っていう形態はどうもとても魅力的だな。
どこででも入手できるものじゃなかったり、限定ものだったり、
というもの血が騒ぐ理由ではある。



とにかくそれほど鼻息の荒くない、それでいて妙な緊張感のある
おかしな写真が撮れたのではないか。
まだ作業は暗室に続くのだけど。



友人は閉店する店の冊子を制作しながらもう既に「次はこんな店をやりたい」という構想を話していた。
おもしろすぎた。
こういう人をまさに懲りない人というのだなあ、と感心した。
私は決して引き止めまい!

いながらにして旅をする

NHK新シルクロードを見てたらウズベキスタンのモスクのタイルを修復している職人さんが
「私は金の為に仕事をしたことは一度もない。
つねに名誉や神様や社会の為に仕事をしているんだ。」
と言っていたのが印象的だった。
そのモスクはある一族が代々タイルを修復し続け、
「後のことは息子や孫に託す。思い残す事はない。」
と長老らしい老人が語っていた。


金にならない仕事でもやりたい/やるべきことをやるのは全然意味のない事じゃない、
意味ないと感じてしまうとしたら資本主義の毒牙にやられてるんだ、きっと。

普段意識もしないで自分を動かしている価値観だけど全然絶対的なものじゃないんだよ、
ということを時々は気に留める必要がある。


先月から中央アジアを旅している妹が
ラサからカトマンズを抜けて「今ポカラに向かってます」
っていうような旅の経過を画像付きで携帯にくれる。


私は地球儀でも買いにでかけようかなあ!

効用

ロンドン帰りの雰囲気を引きずっていた頃に写真について書いていた文章は、
今読むと新鮮でおもしろい。
清々しい文章だなあ。自分で言うのもなんですが。
最近ようやく自分の日々を少し俯瞰で捉える事ができるようになってきた。
ある事に取り組んだり夢中になっている時間を、一定の期間として客観視できることはとても重要だ。
そのとき何をしたくて何を考えていたかを記録に残すことは、その手助けになる。
翻って自分は今どういう時期にいるのかを確認できたり。



焦らずに長い目で(しかし長過ぎず中庸に!)。と最近よく言い聞かせている。
ある仕事に手を付けてから結果を出せるまでにだいたい2、3年はかかるんだ。
そのたったの2,3年が今の私には少し長いような、
時にはじりじりと焦燥を感じることもあって、それで自分に言い聞かせている。
君のやりたい事は何だね?と。

森鴎外曰く。

『一体日本人は生きるということを知っているのだろうか。小学校の門を潜ってからといふものは、一しょう懸命に此学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまはうとする。その先には生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないのである。』


ヨーロッパ文化の洗礼を受けたあと、明治43年つまり1910年に書いた文章。

クラッシュ

友人からバベルに似た構想でバベルよりおもしろいと聞いて観たかったのにレンタル屋でずっと貸し出し中で観るのが叶わず、ようやく。
多民族国家アメリカの悲劇と救済の話。さりげなくキリスト教色が強い。ところどころに映るサンタクロースやクリスマスツリー(ストーリーには絡まない)しかり。
映像のつくり方がとにかく丁寧で、夜のシーンが多いからなおさら強調されるライティング技術の素晴らしさに、希望を感じます。一言で言うとフィリップ・ロルカ・デコルシア風。
ストーリー抜きで映像だけで観てもテーマを感じさせる。そういう映画のつくり方はすごい。

太陽がいっぱい

途中まで料理しながら観てたのでストーリー追えなかったけど、色味とか服装とかすごいいいなあ。ナポリとローマの街並もたくさんでてくる。音楽もいい。
ナポリ!!
行きたい。英語はもうほどほどにしてフランス語とイタリア語をちょっとはしゃべれるようになりたいものだ。
こういう仕事をしていなければこういう風に映画をみたりしなかったかもしれない。 いつからこんなに映像フェチに? 
ところどころ『男はつらいよ』を連想させる。我ながら接点がわからない。